この一週間、留学生のユニオンの同僚のお家にお世話になってる。
午前二時近くなっても勉強してる同僚を横目に、
空気で膨らませたキングサイズの上でごろごろしながら、久しぶりにここで言葉を綴ってみることにした。
ななえの大切にしたいことを読んだら、ななえの柔らかくてあったかいリズムを感じられる気がして、
ほっとした。
私は小さい時からとっても楽観的なところと、ちょっとトゲトゲしたところがある。
トゲトゲしたところは、うーほちゃん(母)の前から、特定の人たちの前以外、滅多に出てこない。
家族から離れて住むようになってから、トゲトゲした部分が出てくることはだいぶ減った。
そして、最近は大学の忙しさの中で、楽観的な部分まで、出てきにくくなっちゃった。
一ヶ月前に大学の課程が終わり、終わった四日後から旅に出た。
たくさんの冒険にあふれた旅をしてきたから、それについてもいつかちゃんと言葉にしたいなと思う。
けど、今回はその旅の中でもずっと考えてる
「楽観的な性格、ものの見方」
について、綴ってみようと思う。
楽観的な部分が減ったのは、大学の忙しさのせいだと思っていたけど
楽観的な性格が、周りの人をむしろ傷つけてるんじゃないかって
無意識に怖くなって、隠すようになったのかもって、最近思った。
いや、前々から少し気づいてた。
こんな辛いことがたくさんある世の中で、楽観的な考えを持てるなんて、
現実見えてなくて、傲慢(英語のignorantっていう言葉の方がしっくりくる)な気がしたり
気づかいの足らないポジティブさが、むしろ周りの人を追い詰めてるかもって思ったりして
楽観的であることを、肯定できなくなってきてた。
けど、大変な状況を目の前にした時に、私はどうしても
「どうにかなる!」
って思う。
そして、自分のその思考によってたくさんの経験ができてきたのだと思う。
って思ったけど、私の経験は、私の楽観主義的態度によって得られてきたものではなく
経済的条件や環境的条件によって得られてきたもので
私の性格でここまできたの!っていうことこそ、それは傲慢やなーって思う。
楽観的なのはいいけど、
それによって得てきた経験を、
それは自分の功績、みたいに、他の環境的要因を視野に入れないで語ることが嫌で
楽観的であることすら、怖くなってたのかも。
めっちゃ、自分中でピンときてるんだけど、私の自己分析というか思考回路が
どれだけ他の人に通じるかって、さっぱりわからない。
それも、不思議。
お互いがお互いを理解してるかって、完全に証明する方法だって、ない。
それでも、私たちはお互いを理解したいし、されたくて、言葉や表現を重ね続けるのだね
。
楽観的であることが、怖くなっていたけれど、ちゃんとなんで楽観的でいられるかっていう
私としての理由を知っていれば、ポジティブさを隠さなくてもいいのかも。
うーん。
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