2019年7月30日火曜日

ほっとする

もう、明日で7月最後だね。あっという間で、びっくり。

今日は、二つの印象的な出来事があって、それとななえの文章も重なって、
あぁ、よかった。心に血が通って、人間に戻れる。って気分になった。

私の言葉、覚えていてくれて、嬉しい。
今も、「障害がある人が生きやすい社会は、みんなが生きやすい社会」って
本当に思っているけれど、なかなかその思いを多くは共有していないっていうのを感じて
不安になることがあるのも事実なの。
だから、ななえが、「わかった」って言ってくれること、とても心強いです。

今日は、ちょっと長い、私の日々感じているちょっとリアルな話。


ソーシャルワーカーとしての研修が始まってから4週間。
最初は日本から帰ってきたばかりで、ホームシックだったり
慣れない環境で、自分が何をするべきかもわからず、迷子な気分だったのだけれど

最近は、ちゃんとしたリズムができてきて、自分がやれることもわかってきて
やりがいが湧いてきた。

けれど、大きな組織の中に入って、ソーシャルワーカーとして働こうとすると
目の前の人をサポートするより、目の前の人を判断し、鑑定(?)するような
立場になっている自分に気づいて、すごい戸惑った。

人と、人としての関係性ではなく、肩書きを通しての関わり合いはとても窮屈で。
思わず、人間らしい対応ができなくなってしまう。

一緒に働いている人たち一人一人、いい人だし、私として関わっている時は
素敵だなぁって思えるのに、役割をおっている姿は、ピンとこなかったり。

人が経済的に困窮するまでには、いろんな社会的要素があるのだけれど
それを飛び越して、「その人個人のせい」ってまとめて、そこからスタートの支援。
っていう感じがどうしてもあって、それがどうしても馴染めなくて。

それで、今日あった印象的だったこと二つについてなんだけど。
一つ目は、これまでの18ヶ月間、ニュージーランドでマオリの赤ちゃんが
生まれてすぐに国の児童相談所の人によって取り上げられるっていうケースが増えているの。
世界中のどこでも、先住民の人の赤ちゃんが、国によって取り上げられ、文化や歴史を奪われてきたっていう事実があるんだけれど、まだまだそれが終わってないことをありありと感じさせられているんだ。
マオリの人たちは、経済的に厳しい状況に置かれていることが多く、そんな中で、アル中などいろんな中毒や家庭内暴力も多いっていう統計もあるんだけれど、それも、マオリの人たちだけのせいではなく、社会のあり方と、ひどい歴史から生まれた現実で。
それを、その人たちをサポートするのではなく、赤ちゃんを取り上げることで、赤ちゃんを守ろうとするのは、むしろ、その赤ちゃんにも家族にとっても、ずっと続く悲しみを生み出す行為になってしまう。
だから、今日、当事者の人が国会に訴えに行くっていうことで、ニュージーランド全国でも、あちこちでマーチがあったんだ。
私が住む街でもマーチがあって、私は、研修先から許可もらって、マーチに参加してきたの。そしたら、マオリの小学生〜高校生の子たちもたくさん参加しにきていて、すごくパワフルだった。若い人たちを囲んで、街の大通りを一緒に歩いて。

「若い人たちが未来を作る」
って思う大人の気持ちが、すごくよくわかった気がする。
おかしいことに、おかしいって声を、迷いなくあげる彼らにとても勇気をもらったの。
彼らは、マオリ語だけの学校に通っている学生さんたちで、
彼らのように文化的なつながりがあり、
それ以外の人と人が助け合えるコミュニティーがあったならば
マオリであっても、当たり前に、人間として尊重されることが可能なのに。って思った。


そしてそのあと、昨年出会った小人症で、私と同じくらいの身長の女性で
シングルで子供を里親として引き取った人が、
その娘さんを正式に養子として迎え入れたお祝いのディナーに行ってきた。
彼女たちも、二人ともマオリで、二人はマオリ語で話している。
集まりには、彼女の近所に住む多様な年齢の人たちがきていて
彼女がスピーチの中で、どういう風にそのコミュニティーの人たちに支えられて
ここまで日々を乗り越えてきたかという話をしていた。

彼女の言葉の中に
「20年前には、障がいを持った女性で、独身で、収入もそんなにないという中で、養子をとるなんてありえないことだった。でも、今それが可能なのは、みんなの力があるからです」って話していて、
彼女がやっていることは、大きく知れ渡ることではないのだけど
すごい革命的なことだなって、思った。
その場に一緒にいられたことが、とても嬉しかった。

その集まりの間じゅう、娘さん含めた子供達は、ずーっと床に転がったり、いろんな人にボール投げたり、走り回って、とにかくたくさん遊んでた。
その周りをぐるっといろんな年代の大人が囲み、みんな優しく、たまに遊んだり、見守っていた。
ご飯使って遊んだりとか、ちょっと危なっかしいことがあっても
怪我はしないようにちゃんと対応するけれど、怒るってことを誰もしない空間で
すごく、すごく居心地がよかった。

「子供を育てるのに村一つ必要」っていう言葉があるけれど、
本当にそうだなぁって思った。
「社会的サービス」として、サービス提供者と、享受者(こんな言葉ある?)がはっきり分かれているのではなく、
同じ地域に住んでいるとか、そういうゆるいつながりの有機的な中で生まれたコミュニティーで、そこに住む人たち同士が助け合う姿が、とてもいいなぁって思った。
マオリの人たちも多かったけれど、白人の人たちもいて、
まだまだ人種差別とかを感じてしまうことだってあるけれど、
それを乗り越えることも可能だし、何より、人と人とがつながりあい助け合って生きていくのが可能なんだって、改めて目の当たりにできて、本当に良かった。

娘さんがあの場所で育てるのはラッキーだけど、
あのコミュニティーにあの親子がいるのもさらにラッキーなこと。
人より少し助けが必要な二人がいることによって、コミュニティーがさらにつながりあい
寄り添う関係を作ってこれたと思うから。

現実はなかなか厳しいところもあるけれど、
希望があることもたくさんあって。
どんな時も、目の前の人を、人として接すること、自分も人間であり続けることを、
諦めないでいよう、と改めて思いました。



宇宙

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